いちこのブログ

社会人になりました。日常生活のことを書きつらねています。

趣味の受け答えをもう一度考える

 f:id:ichiko-blg:20171108092052j:image

最近、趣味を聞かれたときの答えについて考えています。

 

今までの答えは、散歩とか旅行、読書、カメラ、料理とか。

これらは、趣味の答えとして定番のように使われる言葉ですよね。

 

でもよく考えてみると、読書ひとつとっても、楽しみ方は人それぞれ。

好きな作家、好きなジャンルといった好みのちがい。自己啓発のために本を読むのが好きな人、小説を読むのが好きな人。

どんな趣味でも、「好き」のポイントや楽しみ方は人によって違ってきます。

 

だから趣味を「読書」「料理」みたいに括って終わりにしてしまうのは、自分が本当に好きだと思う核心の部分を伝えられていないように思えてきたのです。

それに、趣味でよく言われる定番の言葉に引っ張られて、自分が本当に好きなことなのかな、と疑ってしまうこともあります。

 

趣味が一緒でも、楽しみ方が違えば、会話も大きく変わります。そう気がついたのは、友達と好きなものごとの話をしていたときでした。

 

先日、好きなものが共通する友達と話していたら、ちょっとした違和感があって。

 

同じ好きなものの話をしているはずなのに、あんまり盛り上がらないな、、?
と感じたんです。

 

そのときは、「わたしの話がつまらないのかなぁ」と思っていました。けれど、後々考えてみると、友達とわたしは「好き」のポイントが違ったのでした。

 

その友達は、どちらかというとコレクターのような趣味を持っていて、これだけの場所を訪れたとか、映画を見たとか、本を読んだとか、目に見えてわかる記録を楽しんでいます。

 

一方わたしはというと、旅行では観光名所を何箇所も訪れることはなく、赴きたい場所を厳選します。そして好きになったら、同じ場所に何度も足を運ぶこともあります。
本や映画でいえば、その背景や、場面に出でくる言葉をじっくり考えます。


同じ趣味でも、楽しみ方はいろいろ。自分が好きで、わくわくできればそれでいいのだ、と思います。違う「好き」を知ることでいろいろな見方ができるのも、醍醐味のひとつですよね。

 

これからは、自分の好きを自分で理解して、趣味を伝えられるようになりたいです。立派なものや、ずっと続けてることじゃなくていいから、本当に自分が好きなことを、好きな部分と一緒に伝えられるように。

 

とはいえ、初対面じゃうまく伝えられなくて、「最近、外で写真を撮るのが好きです、、上手くなりたいです」くらいしか言えないんだろうな。

家族というある種の呪縛の話

親戚だって、家族だってわかりあえない

完全に、身の上話的なものです。

家族関係に悩んでるひとには読んでもらえたら嬉しいです。

※深夜に勢いで書いたものだったので、少し書き直しました

 

小さい頃は我が子のように可愛がってくれた、少なくともそう感じていた親戚の態度が、昔とは変わってしまった。
父親のことがあってからのことです。

あからさまに冷たくしたりはしないけど、本心が出ないようにどうにか取り繕っているような。疑心暗鬼と言われればそれまでかもしれないけど、うわべの関係になってしまったように思えます。

その人はその人なりに辛いのだし、わたしに対して「もっとこうしてくれれば」と厭な気持ちを抱いているのも想像できるし、決してどっちが悪いとかいう問題でなくて。

 

ただそんな親戚に対して、というか、世の中の人に対してわたしが思ってるのは、
あなたには、わたしの気持ちは分からない」ということ。

逆もしかりで、わたしも、相手の気持ちを全てわかることはできないけど。

 

正直、家族とか親戚とか、身近で特別な人たちに対しては「わたしのことをわかってほしい」、「わかりあえるものだ」ってつい思いたくなってしまうんですよね。でもそんなの幻想だと、今では思います。

 

想像することまではできるけど、ぜんぶ気持ちをわかることなんてことはできません。立場も考え方も、誰一人同じ人はいないから。

だから「あなたの気持ちはわかるよ」なんて言っても、本当はわからない、わかれない。

 

実際、わたしは父との関係も母との関係も、とても良いとは言い難かったけど、「家族とはいえ別の人間なんだから、完全にはわかりあえない」って気がついてから、なんだか楽になりました。

 

ドラマ「カルテット」が描いた家族関係のグレー

話が少し逸れるのだけど、少し前のドラマ「カルテット」で、わたしがすごく好きな回があります。

 

それは、すずめちゃん(満島ひかり)が確執の深い父親の死に際に、病院に行くかすごく悩んで苦しんで、最終的には父に会いに行かなかった、という回。

 

病院前のバス停では降りられず、降りられても病院には行けずにぼーっとしてたすずめちゃん。真紀さん(松たか子)に父親の死を告げられ「病院行こう」という言葉をかけられるにも、家族という呪縛に苦しんでいて。

「駄目かな。家族だから、行かなきゃ駄目かな。行かなきゃ」

それを聞いた真紀さんの言葉は強くて、優しかった。

「すずめちゃん、軽井沢帰ろう。病院行かなくていいよ」「みんなのとこに帰ろう」

この言葉に、父の死に目にも亡くなった際にも会いに行かないという決断に、どれほどの人が救われただろうと思うのです。

 

家族だからって好きでいなくていいし、わかりあえなくていいし、許せなくてもいい。

 

親の死に目に会えてよかったとか、やっぱり父は自分のことを愛してたとか、ドラマ定番ともいえる家族愛の感動ストーリーに持っていかなかったことが、すごく嬉しかった。世の中とか普通とかそういうものに対する抵抗みたいで。

 

家族関係はひとそれぞれだし、白黒じゃなくて、グレーでいいんだと、思いました。

 

家族にとらわれずに生きる

家族関係で悩んでいるひとがいたら、どうか、「家族だからわかりあえる」とか「家族だから愛さなければいけない」とか、そういう呪縛にとらわれないで生きてほしい、と願います。

 

家族だって別の人間だし、わかりあえないし、許せないこともある。

 

正解なんてなくて自分で決めるしかないから、親とのことは後悔しないように考えたい。自分だけじゃなくてこれを読んでる誰かにも、後悔しないような選択をして生きてほしい、だってなにより、自分の人生なのだから。

 

母やソーシャルワーカーの方に言われた

「あなたは自分の人生を生きて」

という言葉が、ずっと心の何処かにあります。

 

家族にも世の中にもとらわれずに、自由に、自分の人生を生きる、生きたい。

 

 

カルテット DVD-BOX

カルテット DVD-BOX

 

 

 

書くことについて


ここ最近、自分のなかに見ないふりをしてる思いがあって、どこにも置く場所がないので、今日はそれについて書きます。

この記事は誰のためでもなく、自分のためにおいておきます。いつかきっと恥ずかしく思いながら見返すんだろうなって、覚悟のうえです。

1ヶ月、1年、10年経ったら、きっといまの気持ちも忘れてしまっているだろうから、せめて、そのときに思い出せるように。

 

わたしはへたっぴでも書くことがすきで、誰かに伝えたくて、伝えられようになりたいと思っている。人生を通してやりたいことのひとつ。

とはいえ経験もなければ実力もないので、有名なライターさんやブロガーさん、活躍してる友達とか先輩の文章を読むたびにうらやましく思ったり、劣等感を感じたり。「わたしには無理だ」と思い込むことで、書くことから逃げようとしてた。でも、自分も憧れの人たちのように、読んでくれた人の心に届く文章が書きたいという気持ちは、思ったよりも強かった。やりたいことから、逃げられなかった。

身近な人たちの編集分野での活躍を見たりしていたら、自分だって、と憧れの気持ちと悔しい思いが湧いてきて、書くことへの思いに気がついたのだった。

そんな気持ちも見て見ぬふりして日々の業務に追われているうち、季節はどんどん過ぎて、夏も終わってしまった。気がついたら、わたしだけ置いてかれてしまう。この文章を書きながら、老いて枯れてしまう、という言葉が思い浮かんだよ。
わたしの周りにいる人たちは、自分の夢に向かってどんどん前へと進んでしまう。それでいてわたしは、右も左もわからずなんとなく進んで、寄り道して、遠回りして。。
今まではやりたいことがわからずに遠回りすることが多かったけど、これからそんな風に歳はとりたくない、と思った。

 

書けないし、書いたところでみっともない文章になってしまうし、人と比べてしまうし、だから書きたくないとも思うけど、けど、けど、それでも、書く。どんなに目を背けても、うまく伝えられないもどかしさは、自分が納得する文章を書けるようになることでしか払拭できないから。

恥ずかしいのもみっともないのも劣等感も、全部ひっくるめて自分を認めて、そこからがスタート地点なんだな、と気がついた。今まで、わたしはスタート地点にすら立ててなかったよ。

 

スタート地点に経ったいま、あとはゴールに向けて突っ走る。いっぱいインプットするし、いっぱいアウトプットもする。ブログも書く。 

 

誰かのためになる記事をいっぱい書きたいけれど、こんな風に自分の思うことをばーって書きたい気持ちのときもあって、ブログってむずかしい。

いつも元気なんて無理だもん、、でも新しいワンピでテンションあげて、一生無双モードでがんばるよ。なんてね。

 

笑ったり、落ち込んだり、なにくそともがいたり忙しいわたしですが、今後ともお付き合いいただければ幸いです。

「永遠も半ばを過ぎて」を読んで考えた言葉のこと

中島らも「永遠も半ばを過ぎて」

タイトルに惹かれて買った、らもさんの小説。

最初はタイトルの「永遠も」を、「えいえんも」と読んでいたのだけれど、正しくは「とわも」でした。

以後感想について、ネタバレ含みますので、気にしない方のみ読んでください。

 
この本は、中島らもさんのエッセイを読んで、そのあと初めて読んだ、らもさんの小説です。永遠ていうものが、ほんとに永遠じゃなく感じるこのタイトルが、とても好き。このタイトルの由来は、登場人物の波多野が書いた原稿の最初の一節です。ラリったゆえに生まれてきた言霊とはいえ、というより、だからこそなのか、とても美しい。

 

あらすじは、詐欺師の相川と写植屋の波多野、出版社に勤める宇井を中心に、波多野が睡眠薬とビールを飲んで、ハイになった状態で書いた原稿を、幽霊が彼に乗りうつって書いた本だとして売り出す、というもの。コメディ仕立てになっています。


登場人物が睡眠薬をビールで飲んだり、その数錠をボリボリ食べたり、他にも家族に隠れて止められているお酒を飲んだり。そんな場面が出てくるのが、らもさんらしいですよね。わたしは父がアルコール依存症で、薬を酒で飲んだりもするから、リアリティを感じられてなんだか笑えます。

 

らもさんの感性を大好きだって思ったのが、この本に出てくる次の文章。

人は自分の心に名前がないことに耐えられないのだ。そして、孤独や不幸の看板にすがりつく。私はそんなに簡単なのはご免だ。不定形のまま、混沌として、名をつけられずにいたい。・・・(中略)・・・私の心に名前をつけないでほしい。

感情に、嬉しいとか悲しいとか、切ないとかなんとか名前をつけるとき、その瞬間にしかない唯一のものなのに、レッテルにくくられて、感情の機微が失われてしまう気がします。だから、混沌のままでいいのに。恋と友情の話なんかもそう。恋に近い友情もあると思うし、そもそも恋というものだって一つじゃなくて、いろんな恋があるじゃないですか。名前なんてつけなくていいのに、って、そう思うのです。

小説に出てきたこの文章は、そんな思いを掬いあげてくれるものでした。わたしもそう思ってたの、って伝えたくなります。

 

言葉についてもうひとつ。

おれは、岩や水の方がうらやましい。生きているってのは異様ですよ。みんな死んでるのにね。異様だし不安だし、水のなかでもがいているような感じがする。だから人間は言葉を造ったんですよ。卑怯だから、人間は。

作家の平沢にテレビのトーク番組でこの本は偽物だとつめられた際に、波多野が言った台詞です。

それに写植屋の波多野にとっては、

文学も肉の安売りのチラシも同じことで、崇高な言葉もなければ下等な言葉というのもない。

ということらしい。

水のなかでもがくようにして生まれる言葉だからこそ、誰かの心に響くのかもしれない。チラシなんかの文言も含めて、言葉ひとつひとつを愛おしく思えてきます。

 

言葉を使って、名前をつけ難いようなものを紐解きながら伝えるのは骨が折れる作業だし、結局は言葉でぜんぶ表すことなんてできないでしょ、と思うこともあります。
でもどうにかこうにか、もがきながら、言葉で伝えられるように書くことを続けたいと思います。

 

 

永遠も半ばを過ぎて (文春文庫)

永遠も半ばを過ぎて (文春文庫)

 

 

 

インターネットの海で、思い出のおでん屋さんを見つけた話

普段、なかなか会えない‪友人に連れて行ってもらった思い出のおでん屋さんが、キラキラしたメディアにとりあげられているのを見つけました。

 

友人が教えてくれたおでん屋さん

彼が行きつけだというそのおでん屋さんは、繁華街からは少し離れたところにあるこじんまりとしたお店。
おでん屋さんに行くのは人生で2回目だったのですが、おでん屋さんて、なぜだかとても落ち着くんですよね。人はわいわいしてるのだけど、気にさわることもなく。たとえ一人で来ていても長居してしまいそうな、ゆったりとした時間が流れる空間でした。

わたしはそこで美味しいおでんを食べながら、友人の好きな小説家とか、バンドの話を聞いたりして。相手が好きなお店でくつろぎながら好きなものの話ができることに、心地よさを感じていたのを憶えています。


某メディアで、そのお店を見つけた

そんな、自分にとっての思い出でもある(遠いので、それ以来1度も行っていない)おでん屋さんがメディアで紹介されているのを見つけたら、なぜだか残念な、悲しい気持ちになって。そのお店をある種の「イメージ」として見せられたことで、自分の特別を否定されたような気持ちがしたのです。自分にとって特別で大切にしていたものが、ありふれたものだとレッテル貼りされたような。

インターネットでは、誰かにとっての「特別」も情報として切り取られて、誰しも手が届くものになってしまうんだ、と思いました。

わたしも飲食店を探すのにネットを使うし、疑問に思ったらすぐに検索するから、いろんな物事にアクセスできる便利さは十二分にわかっています。けど、検索で見つかるのはあくまで一般的なものでしかなくて、そこにそれぞれの特別は見つけられないんですよね。


特別じゃなくなる訳じゃなかった

ほんとは、わたしにとっての特別が変わるわけじゃなくて、そんな嘆くことでもないって、わかってはいるのです。
ネットの向こうにいる無数の人たちに向けた文章で、写真で、そのお店が紹介されたとしても、わたしにとっての特別性は、なにも変わらないはずなんですよね。当たり前だけど、たとえメディアで紹介されようと、有名になろうと、誰もわたしの特別や思い出に干渉することはできないんだから。

 

ただ、メディアが切りとったイメージのもっと先にこそ、価値があるのだとわたしは思います。イメージのもっと先にある、感情とか、思い出とかそういうの。

実際に行くことでイメージとは違う現実になって、経験になって、誰かとの素敵な思い出になって。そこにわたしにとっての意味があることを忘れないでいたいです。


広くて深くていろんなものが存在する、海みたいなインターネットの世界。そこで偶然にも思い出のおでん屋さんを見つけたという、ただそれっぽっちのことだけど。思いがけず見せられた大衆的イメージに、ダメージをくらったのでした。

そんなイメージとは関係なしに、「この特別は自分だけのだ」って、変わらずぎゅっと守っていきたいです。

【きょうの料理】土井さんからレミさんまで

今回は、NHKきょうの料理」のお話です。

きょうの料理「コーンフレークス」の回

f:id:ichiko-blg:20170818211405j:image

8月3日放送のきょうの料理

この日は、土井善晴さんと後藤さんのお二人が、えびのコーンフレークス揚げと角切りトマトのサラダ、トマトとしらすの三杯酢を紹介していました。

料理名から察していただけるかと思いますが、土井さんはなぜかコーンフレークではなく、「コーンフレークス」という呼び方をされます。複数形だからこの呼び方の方が正しい気もするし、「コーンフレーク揚げ」より「コーンフレークス揚げ」の方が、エビにコーンフレークを何枚もまぶす感じが表現されているように思えてきました。サクサクしてて美味しそうなコーンフレークス揚げ、一度試してみたいですね。

 

家庭料理は、ふぞろいでいい

トマトを色々な大きさに角切にしながら語る土井さん。

「(大小のトマトが)それぞれに美味しくしてくれるわけですよ。
ふぞろいを許してくれるのは家庭料理だけです。」

土井さんの料理と言葉には、いつも家庭料理ならではのよさ、あたたかさが垣間見える気がします。大きさがばらばらで揃っていなかったり、形が整っていなかったり。そこがまた家庭料理の風情かなと思います。


貴重な土井さんの駄洒落回

今回は、珍しく土井さんが駄洒落を言うレア回だったんですよ。
コーンフレークスあげを網にとりながら、
後藤さんに丁寧に駄洒落をなげる土井さん。

「わーっとあがっているときには、だんだん興奮、こーんふれーくす、コーンフレクスしてくるんです」

テレビを見てたわたしも思わずふふってなりました。

駄洒落はいつも後藤さんの担当なので、土井さんが積極的にかましてくるのは珍しいのです。駄洒落のふりまで手料理みたいに丁寧なのがポイント。

「先生無理なさらなくても、、
恥をかくのはわたくし一人で大丈夫ですから」

後藤さん、すかさずフォロー。

「ほんまやで
よう頼んますわ」

照れ笑いの土井さん。


そんな会話が繰り広げられていました。

この微笑ましさを誰かに伝えたくて、思わずここに文章化したのですが、番組の空気感をうまく伝えられないのが残念。。わたしの表現力。。

 

お二人のやりとりから見えるのは、料理は単なる家事とか、ご飯を作る作業だけではなくて、一種のコミュニケーションにもなりえるということです。ほかの料理番組のアナウンサーや進行役の方と、料理人のやりとりもまさに。料理を通したコミュニケーションを楽しめるというのが、料理番組を好きな理由のひとつです。

 

料理番組がもつ面白さ

料理番組は好きですか?

わたしはNHKきょうの料理」を見るようになってから料理番組のイメージが変わり、ハマって録画するまでになりました。


わたしが好きな料理家でいうと、土井善晴さんのほか栗原はるみさんや平野レミさんがそうで、こちらの方々の「きょうの料理」も、それはもう本当に面白いんですよ。


まず、料理人の料理する手を見られること。なかでも、わたしは包丁の使い方を見るのがとても好きです。包丁の使い方以外にも、フライパンの使い方とか。料理の仕方を学べるのはもちろんですが、料理家さんそれぞれの包丁さばき、フライパンの振り方に見とれます。


ほかにも、番組内で繰り広げられる会話から、人柄や料理に対する思い、考え方が見えるのも楽しい。

 

平野レミさんの調理法

包丁の使い方でふと思い出したのが、平野レミさん。レミさんて、パクチーみたいな葉物を細かく切るとき、包丁でまな板を叩くような感じで「タンタンタンタン‼︎‼︎」てするんですよね。そんな包丁の使い方もありなのか、、!?とびっくりします。
ほかにも、ボウルでにんにくを「ガン!」て潰したりとか、レミさんはいつだって豪快。
ブロッコリーを立たせたレシピも話題でしたよね。あさイチの。マツコ知らない世界でこのときの映像が紹介されたときには、「(小房にせず丸ごと使うことで)ブロッコリーが喜ぶと思ったの」とおっしゃってて、豊かすぎる感性に感服しました。

そんな、感性豊かで発想力あふれるレミさんのレシピは斬新で、インパクト大。レミさんが出演されている番組は、料理番組なのにバラエティ並みに笑える、特別なジャンルの料理番組です。

これは余談ですが、レミさんのキャッチーなレシピ名すきです。「ごっくんコロッケ」にはじまり、「食べれば〇〇」とか、「アボカドあっちっチーズ」とか。

 

さいごに

平野レミさんが出演されている番組は言わずもがな、料理番組はきっと思ってるより楽しいものだから、少しでも料理に興味がある人、最近料理を始めた人にはぜひ見てほしいと思います。

思うま まに書いてたら、土井さんの話にはじまり、なぜかレミさんの話でおわりました。尊敬してやまない大好きなお二人なので、いつか共演しないかなとひそかに願っています。

 

ちなみに、エビのコーンフレークス揚げは8月号のテキストに載っています。

 

NHKきょうの料理 2017年8月号 [雑誌] (NHKテキスト)

NHKきょうの料理 2017年8月号 [雑誌] (NHKテキスト)

 

 

 

なすおかずを中心に、栗原さんの豚しゃぶなど夏らしいレシピが満載の7月号もおすすめです。

 

NHKきょうの料理 2017年7月号 [雑誌] (NHKテキスト)

NHKきょうの料理 2017年7月号 [雑誌] (NHKテキスト)

 

 

 

ついに、冷蔵庫にメモを貼った

久しぶりに、休日を家で過ごした

外に出たのはスーパーに行ったときだけ。家で家事したり料理したり、ゆっくり過ごせました。

朝から洗濯機を2回まわして、布団を干しました。今日は暑くて、青々した空に入道雲がマンションの向こうに見えたりして、夏らしい空模様でした。休日に、青い空にはためく布団を見るのが好きです。はせさん(はせおやさいさん)も、そうしてコーヒーを飲むのが好きってブログかツイッターでおっしゃってたような。そんなことしながら、社会人の休日って悪くないなぁ、というより、むしろよいなぁと思っています。

 

買い物にも行って、久しぶりに料理をしました。やっぱり料理楽しい。

 

冷蔵庫メモを貼ることにした

f:id:ichiko-blg:20170806215710j:image

そして今日から、冷蔵庫の中身メモを貼ることにしました。

あまりに野菜をだめにしてしまうことが多くて、そこからしばらく料理をしてなかったので。。こうしておけば、数日料理しない日が続いても忘れないし、もったいない意識で料理もするし、だめにすることはなくなるはず。

しなしなになったなす、形をとどめられなくなったきゅうり、先が黄色っぽくなったねぎ、水っぽくなったもやし、、、

思い返せば、結構な数を捨ててきました。今までだめにしてしまった野菜のことを思うと悲しい。生産者の人にも申し訳ないです。。

f:id:ichiko-blg:20170806220655j:image

「こんなところにネギおいたっけ」と思ったら玉ねぎだったこともありました。「玉ねぎからネギ生えてきた!」って思って、思わずひとりで笑って、写真まで撮ってしまったという。ネット情報によればこの状態でも食べられるらしいんですが、切ってみたらスカスカだったか何かで、結局捨ててしまいました。もうこんな風にはしないぞ。

買い物行って、冷製パスタ作って、録り溜めてた料理番組とかバラエティとかを見て。最高の休日でした。土井善晴さんのエビのコーンフレークス揚げの回、面白かったのでまた別途書きます。

f:id:ichiko-blg:20170806215733j:image

今日のお昼ごはん。料理名は、底の見えない自家製野菜の冷製パスタ。おばあちゃんがくれたトマト、みずみずしくて美味しかったです。やっぱり新鮮な野菜がいちばん。

 

大学生の頃を思い返すと、休日の価値をなんもわかってなかったなぁと思います。早起きも、全くと言っていいほどできなかったですし。午前中に洗濯して、青空にはためく布団を見る幸せなんて、到底理解できなかったでしょうね。当時は洗濯するのなんてお昼とか午後なことが多くて、休日は今よりずっと短かったです。

出掛けない休日だってこんな幸せな時間を過ごせて、社会人って楽しいよ。と当時のわたしに教えてあげたい。そしてこれからのわたしには、もっと家事をてきぱきこなせるようになってもらいたいものです。

 

追記

最近もう一度、『この世界の片隅に』を見たいと思っています。できれば映画館で。最初に見たとき感想をブログに書こうと思ったのですが、結局書けずに終わってるのもあって。 自分のなかで、もう一度整理したい気持ちが湧いています。

さっきふと今日の日付に気がついて、『この世界の片隅に』ですずさんが料理をしているシーンや、「(この世界がどんなことになっても)お前だけは普通でいてくれ」という台詞、すずさんが守ろうとした家や日常と、今日の自分の一日が重なりました。今日という、なんでもない普通の一日。そんな普通を、これからも守っていけますように。