いちこのブログ

社会人になりました。日常生活のことを書きつらねています。

生活のたのしみ展にいった

f:id:ichiko-blg:20171121094547j:image

土曜日、友達と生活のたのしみ展に行きまし
た。
途中で人酔いするくらい人が多くて、ほぼ日ファンの多さにびっくり。思ったことや感想を書いていきます。

 

ほぼ日のアースボール

着いたらすぐ、ほぼ日のアースボールの宣伝販売を自ら始める糸井重里さんの姿が。せっかくなので、しっかり聞いてきました。糸井さんちょっと声嗄れてて、毎日のように声はりあげてアースボールのことを伝えてらっしゃったんだろうな、と思いました。それくらい、思いいれがあるんだと思います。

アースボールは、アプリをかざして地球のいろいろを見て、知ることができる地球儀です。ビニール素材でできています。
アプリをかざすと地球儀に国旗の旗が立体的に浮かび上がったり、地名を入力すると、立体的なゾウが「ここだゾウ」とその場所を教えてくれたり。わたしが一番いいなと思ったのは、夜の地球を見ることができる機能。人が密集してる場所、技術が発展してる場所がわかるのはもちろん、その土地に住む人の夜の暮らしに思いをはせるのもいいですよね。
そんな、最先端技術と遊び心を融合させたような地球儀です。

 

遠く離れた土地や地球という惑星、宇宙のことに思いをはせると、自分の悩みなんか、すごくちっぽけなものに思えてきます。

わたしは買いませんでしたが、もしいつか子どもを持つことがあれば、買って見せてあげたいなぁと思いました。

 

お目当てのMHLのエプロン

f:id:ichiko-blg:20171121094636j:image
わたしが今回買ったのが、こちらのエプロン。
彼にエプロンをプレゼントしたいと思っていたのですが、男性向けエプロンってなかなか見つからず、その人に似合うものとなるとさらに見つけるのが難しく。

しっかりした素材と風合い、そしてチャコルグレーの色は今回オリジナルということもあり、プレゼントにしっくりきたのでした。
スタッフさんに「プレゼントなんです」と話すと、ご丁寧に紙袋をつけてくださいました。
ぴったりのプレゼントを気持ちよく手にできて、嬉しい気持ちになりました。

 

みんなが大好きなスタンプがあった

f:id:ichiko-blg:20171127200934j:image
ほぼ日手帳に押せるよ!とばかりに、記念スタンプが置いてありました。まんまと乗せられて、ほぼ日手帳に押しました。普段は手帳に押したりしないのに。ついペタっとしてしまいました。

f:id:ichiko-blg:20171127201016j:image
こちらは、スタンプ置き場の近くにあったヨシタケシンスケさんのイラスト。

ほぼ日手帳の説明書らしい。可愛い。。


生活のたのしみ展、そんな感じでした。
カレーの車も寄りたかったのですが、すごく並んでたので断念。

 

多少高くても、オリジナルでちょっといいもの。そういうのを求める時代になってきたのかなと思いました。

受け入れること、時にたたかうこと

f:id:ichiko-blg:20171120211208j:image

「大人になるってことは、受け入れるようになることだ」

最近、特にそう思うようになったので、今回は現実を受け入れることについて書きます。

現実を受け入れるというのは、人は変わらないから自分が変わるしかない、ということでもあります。

 

昔を振り返ると、10代の頃は、世界は自分の思うようになると、少なからず思い込んでいました。お酒をやめられない、アルコール依存症の父親のことも。言葉で、思いで、変えられると思っていました。けど、人が人を変えることってできないんですよね。

アドラーの言葉に、

「馬を水飲み場まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」

というのがあります。こちらから働きかけることはできても、行動を起こすかどうかはその人次第。こちらの考えを強制することはできません。
当たり前のことだけど、この歳になってようやく、周りの人間は自分の思うようにはならないと学んだのでした。

「人を変えることはできない」というのは、家族関係をはじめ、全ての人間関係に通じることでもあります。
「全部わかりあえる」とか「自分の話なら受け入れてもらえるはず」というのは、相手を自分の一部のように捉えているだけの思い込みです。

そんな思い込みを捨てて、厳しくても現実を受け入れることで初めて、他の人を変えられないなら自分が変わるしかないとか、そんなことに気がつけます。そして初めて前に進むことができるのだと思います。

 

わたしはこれを、父親との関係のなかで学びました。アルコール依存症は精神の病気なので、相手を説得するとか変えるとか、そんな簡単にいくわけないんです。根気強く病気を理解し、接し方や接するタイミングなどを意識して付き合っていくもので。

「父は、わたしの思うようにはならない。俗に言う家族への愛とか家族の支えの問題じゃない」
「あの人が変わらないなら、わたしが変わるしかない」

そう気がついてから、少し生きやすくなりました。

 

アルコール依存症について余談になりますが、家族愛とか家族の支えって、おそらく必要だとは思うけど、それがあったからって、本人が変われる保証はないんです。わたし達が苦しんで心を病むくらいなら、わたし達家族にだって、その人から逃げる自由があっていい。家族にとって心休まる居場所が、絶対、どこかにあっていい。そう思います。

 

話がそれましたが、そんな風にして、否が応でも現実を受け入れるようになってきたからこそ、大なり小なり現実を変えようともがいている人は、すごく格好よく見えます。

そういう人に触れると、辛いこと悲しいこと沢山起こるけど、わたしもたたかおう、って思えます。この現実でいいのか、自分の気持ちに正直に向き合おうって。

 

生きるために現実を受け入れつつも、時にはたたかう、そんな格好いい大人になりたいです。やるときはやるっていう。キャラクターでいうと、誰だろう。宇宙兄弟のムッタみたいな?
やるせない現実のなかでもがいたりとか、ちょっと格好悪いくらいくらいが、格好いいのかもしれないです。

趣味の受け答えをもう一度考える

 f:id:ichiko-blg:20171108092052j:image

最近、趣味を聞かれたときの答えについて考えています。

 

今までの答えは、散歩とか旅行、読書、カメラ、料理とか。

これらは、趣味の答えとして定番のように使われる言葉ですよね。

 

でもよく考えてみると、読書ひとつとっても、楽しみ方は人それぞれ。

好きな作家、好きなジャンルといった好みのちがい。自己啓発のために本を読むのが好きな人、小説を読むのが好きな人。

どんな趣味でも、「好き」のポイントや楽しみ方は人によって違ってきます。

 

だから趣味を「読書」「料理」みたいに括って終わりにしてしまうのは、自分が本当に好きだと思う核心の部分を伝えられていないように思えてきたのです。

それに、趣味でよく言われる定番の言葉に引っ張られて、自分が本当に好きなことなのかな、と疑ってしまうこともあります。

 

趣味が一緒でも、楽しみ方が違えば、会話も大きく変わります。そう気がついたのは、友達と好きなものごとの話をしていたときでした。

 

先日、好きなものが共通する友達と話していたら、ちょっとした違和感があって。

 

同じ好きなものの話をしているはずなのに、あんまり盛り上がらないな、、?
と感じたんです。

 

そのときは、「わたしの話がつまらないのかなぁ」と思っていました。けれど、後々考えてみると、友達とわたしは「好き」のポイントが違ったのでした。

 

その友達は、どちらかというとコレクターのような趣味を持っていて、これだけの場所を訪れたとか、映画を見たとか、本を読んだとか、目に見えてわかる記録を楽しんでいます。

 

一方わたしはというと、旅行では観光名所を何箇所も訪れることはなく、赴きたい場所を厳選します。そして好きになったら、同じ場所に何度も足を運ぶこともあります。
本や映画でいえば、その背景や、場面に出でくる言葉をじっくり考えます。


同じ趣味でも、楽しみ方はいろいろ。自分が好きで、わくわくできればそれでいいのだ、と思います。違う「好き」を知ることでいろいろな見方ができるのも、醍醐味のひとつですよね。

 

これからは、自分の好きを自分で理解して、趣味を伝えられるようになりたいです。立派なものや、ずっと続けてることじゃなくていいから、本当に自分が好きなことを、好きな部分と一緒に伝えられるように。

 

とはいえ、初対面じゃうまく伝えられなくて、「最近、外で写真を撮るのが好きです、、上手くなりたいです」くらいしか言えないんだろうな。

家族というある種の呪縛の話

親戚だって、家族だってわかりあえない

完全に、身の上話的なものです。

家族関係に悩んでるひとには読んでもらえたら嬉しいです。

※深夜に勢いで書いたものだったので、少し書き直しました

 

小さい頃は我が子のように可愛がってくれた、少なくともそう感じていた親戚の態度が、昔とは変わってしまった。
父親のことがあってからのことです。

あからさまに冷たくしたりはしないけど、本心が出ないようにどうにか取り繕っているような。疑心暗鬼と言われればそれまでかもしれないけど、うわべの関係になってしまったように思えます。

その人はその人なりに辛いのだし、わたしに対して「もっとこうしてくれれば」と厭な気持ちを抱いているのも想像できるし、決してどっちが悪いとかいう問題でなくて。

 

ただそんな親戚に対して、というか、世の中の人に対してわたしが思ってるのは、
あなたには、わたしの気持ちは分からない」ということ。

逆もしかりで、わたしも、相手の気持ちを全てわかることはできないけど。

 

正直、家族とか親戚とか、身近で特別な人たちに対しては「わたしのことをわかってほしい」、「わかりあえるものだ」ってつい思いたくなってしまうんですよね。でもそんなの幻想だと、今では思います。

 

想像することまではできるけど、ぜんぶ気持ちをわかることなんてことはできません。立場も考え方も、誰一人同じ人はいないから。

だから「あなたの気持ちはわかるよ」なんて言っても、本当はわからない、わかれない。

 

実際、わたしは父との関係も母との関係も、とても良いとは言い難かったけど、「家族とはいえ別の人間なんだから、完全にはわかりあえない」って気がついてから、なんだか楽になりました。

 

ドラマ「カルテット」が描いた家族関係のグレー

話が少し逸れるのだけど、少し前のドラマ「カルテット」で、わたしがすごく好きな回があります。

 

それは、すずめちゃん(満島ひかり)が確執の深い父親の死に際に、病院に行くかすごく悩んで苦しんで、最終的には父に会いに行かなかった、という回。

 

病院前のバス停では降りられず、降りられても病院には行けずにぼーっとしてたすずめちゃん。真紀さん(松たか子)に父親の死を告げられ「病院行こう」という言葉をかけられるにも、家族という呪縛に苦しんでいて。

「駄目かな。家族だから、行かなきゃ駄目かな。行かなきゃ」

それを聞いた真紀さんの言葉は強くて、優しかった。

「すずめちゃん、軽井沢帰ろう。病院行かなくていいよ」「みんなのとこに帰ろう」

この言葉に、父の死に目にも亡くなった際にも会いに行かないという決断に、どれほどの人が救われただろうと思うのです。

 

家族だからって好きでいなくていいし、わかりあえなくていいし、許せなくてもいい。

 

親の死に目に会えてよかったとか、やっぱり父は自分のことを愛してたとか、ドラマ定番ともいえる家族愛の感動ストーリーに持っていかなかったことが、すごく嬉しかった。世の中とか普通とかそういうものに対する抵抗みたいで。

 

家族関係はひとそれぞれだし、白黒じゃなくて、グレーでいいんだと、思いました。

 

家族にとらわれずに生きる

家族関係で悩んでいるひとがいたら、どうか、「家族だからわかりあえる」とか「家族だから愛さなければいけない」とか、そういう呪縛にとらわれないで生きてほしい、と願います。

 

家族だって別の人間だし、わかりあえないし、許せないこともある。

 

正解なんてなくて自分で決めるしかないから、親とのことは後悔しないように考えたい。自分だけじゃなくてこれを読んでる誰かにも、後悔しないような選択をして生きてほしい、だってなにより、自分の人生なのだから。

 

母やソーシャルワーカーの方に言われた

「あなたは自分の人生を生きて」

という言葉が、ずっと心の何処かにあります。

 

家族にも世の中にもとらわれずに、自由に、自分の人生を生きる、生きたい。

 

 

カルテット DVD-BOX

カルテット DVD-BOX

 

 

 

書くことについて


ここ最近、自分のなかに見ないふりをしてる思いがあって、どこにも置く場所がないので、今日はそれについて書きます。

この記事は誰のためでもなく、自分のためにおいておきます。いつかきっと恥ずかしく思いながら見返すんだろうなって、覚悟のうえです。

1ヶ月、1年、10年経ったら、きっといまの気持ちも忘れてしまっているだろうから、せめて、そのときに思い出せるように。

 

わたしはへたっぴでも書くことがすきで、誰かに伝えたくて、伝えられようになりたいと思っている。人生を通してやりたいことのひとつ。

とはいえ経験もなければ実力もないので、有名なライターさんやブロガーさん、活躍してる友達とか先輩の文章を読むたびにうらやましく思ったり、劣等感を感じたり。「わたしには無理だ」と思い込むことで、書くことから逃げようとしてた。でも、自分も憧れの人たちのように、読んでくれた人の心に届く文章が書きたいという気持ちは、思ったよりも強かった。やりたいことから、逃げられなかった。

身近な人たちの編集分野での活躍を見たりしていたら、自分だって、と憧れの気持ちと悔しい思いが湧いてきて、書くことへの思いに気がついたのだった。

そんな気持ちも見て見ぬふりして日々の業務に追われているうち、季節はどんどん過ぎて、夏も終わってしまった。気がついたら、わたしだけ置いてかれてしまう。この文章を書きながら、老いて枯れてしまう、という言葉が思い浮かんだよ。
わたしの周りにいる人たちは、自分の夢に向かってどんどん前へと進んでしまう。それでいてわたしは、右も左もわからずなんとなく進んで、寄り道して、遠回りして。。
今まではやりたいことがわからずに遠回りすることが多かったけど、これからそんな風に歳はとりたくない、と思った。

 

書けないし、書いたところでみっともない文章になってしまうし、人と比べてしまうし、だから書きたくないとも思うけど、けど、けど、それでも、書く。どんなに目を背けても、うまく伝えられないもどかしさは、自分が納得する文章を書けるようになることでしか払拭できないから。

恥ずかしいのもみっともないのも劣等感も、全部ひっくるめて自分を認めて、そこからがスタート地点なんだな、と気がついた。今まで、わたしはスタート地点にすら立ててなかったよ。

 

スタート地点に経ったいま、あとはゴールに向けて突っ走る。いっぱいインプットするし、いっぱいアウトプットもする。ブログも書く。 

 

誰かのためになる記事をいっぱい書きたいけれど、こんな風に自分の思うことをばーって書きたい気持ちのときもあって、ブログってむずかしい。

いつも元気なんて無理だもん、、でも新しいワンピでテンションあげて、一生無双モードでがんばるよ。なんてね。

 

笑ったり、落ち込んだり、なにくそともがいたり忙しいわたしですが、今後ともお付き合いいただければ幸いです。

「永遠も半ばを過ぎて」を読んで考えた言葉のこと

中島らも「永遠も半ばを過ぎて」

タイトルに惹かれて買った、らもさんの小説。

最初はタイトルの「永遠も」を、「えいえんも」と読んでいたのだけれど、正しくは「とわも」でした。

以後感想について、ネタバレ含みますので、気にしない方のみ読んでください。

 
この本は、中島らもさんのエッセイを読んで、そのあと初めて読んだ、らもさんの小説です。永遠ていうものが、ほんとに永遠じゃなく感じるこのタイトルが、とても好き。このタイトルの由来は、登場人物の波多野が書いた原稿の最初の一節です。ラリったゆえに生まれてきた言霊とはいえ、というより、だからこそなのか、とても美しい。

 

あらすじは、詐欺師の相川と写植屋の波多野、出版社に勤める宇井を中心に、波多野が睡眠薬とビールを飲んで、ハイになった状態で書いた原稿を、幽霊が彼に乗りうつって書いた本だとして売り出す、というもの。コメディ仕立てになっています。


登場人物が睡眠薬をビールで飲んだり、その数錠をボリボリ食べたり、他にも家族に隠れて止められているお酒を飲んだり。そんな場面が出てくるのが、らもさんらしいですよね。わたしは父がアルコール依存症で、薬を酒で飲んだりもするから、リアリティを感じられてなんだか笑えます。

 

らもさんの感性を大好きだって思ったのが、この本に出てくる次の文章。

人は自分の心に名前がないことに耐えられないのだ。そして、孤独や不幸の看板にすがりつく。私はそんなに簡単なのはご免だ。不定形のまま、混沌として、名をつけられずにいたい。・・・(中略)・・・私の心に名前をつけないでほしい。

感情に、嬉しいとか悲しいとか、切ないとかなんとか名前をつけるとき、その瞬間にしかない唯一のものなのに、レッテルにくくられて、感情の機微が失われてしまう気がします。だから、混沌のままでいいのに。恋と友情の話なんかもそう。恋に近い友情もあると思うし、そもそも恋というものだって一つじゃなくて、いろんな恋があるじゃないですか。名前なんてつけなくていいのに、って、そう思うのです。

小説に出てきたこの文章は、そんな思いを掬いあげてくれるものでした。わたしもそう思ってたの、って伝えたくなります。

 

言葉についてもうひとつ。

おれは、岩や水の方がうらやましい。生きているってのは異様ですよ。みんな死んでるのにね。異様だし不安だし、水のなかでもがいているような感じがする。だから人間は言葉を造ったんですよ。卑怯だから、人間は。

作家の平沢にテレビのトーク番組でこの本は偽物だとつめられた際に、波多野が言った台詞です。

それに写植屋の波多野にとっては、

文学も肉の安売りのチラシも同じことで、崇高な言葉もなければ下等な言葉というのもない。

ということらしい。

水のなかでもがくようにして生まれる言葉だからこそ、誰かの心に響くのかもしれない。チラシなんかの文言も含めて、言葉ひとつひとつを愛おしく思えてきます。

 

言葉を使って、名前をつけ難いようなものを紐解きながら伝えるのは骨が折れる作業だし、結局は言葉でぜんぶ表すことなんてできないでしょ、と思うこともあります。
でもどうにかこうにか、もがきながら、言葉で伝えられるように書くことを続けたいと思います。

 

 

永遠も半ばを過ぎて (文春文庫)

永遠も半ばを過ぎて (文春文庫)

 

 

 

インターネットの海で、思い出のおでん屋さんを見つけた話

普段、なかなか会えない‪友人に連れて行ってもらった思い出のおでん屋さんが、キラキラしたメディアにとりあげられているのを見つけました。

 

友人が教えてくれたおでん屋さん

彼が行きつけだというそのおでん屋さんは、繁華街からは少し離れたところにあるこじんまりとしたお店。
おでん屋さんに行くのは人生で2回目だったのですが、おでん屋さんて、なぜだかとても落ち着くんですよね。人はわいわいしてるのだけど、気にさわることもなく。たとえ一人で来ていても長居してしまいそうな、ゆったりとした時間が流れる空間でした。

わたしはそこで美味しいおでんを食べながら、友人の好きな小説家とか、バンドの話を聞いたりして。相手が好きなお店でくつろぎながら好きなものの話ができることに、心地よさを感じていたのを憶えています。


某メディアで、そのお店を見つけた

そんな、自分にとっての思い出でもある(遠いので、それ以来1度も行っていない)おでん屋さんがメディアで紹介されているのを見つけたら、なぜだか残念な、悲しい気持ちになって。そのお店をある種の「イメージ」として見せられたことで、自分の特別を否定されたような気持ちがしたのです。自分にとって特別で大切にしていたものが、ありふれたものだとレッテル貼りされたような。

インターネットでは、誰かにとっての「特別」も情報として切り取られて、誰しも手が届くものになってしまうんだ、と思いました。

わたしも飲食店を探すのにネットを使うし、疑問に思ったらすぐに検索するから、いろんな物事にアクセスできる便利さは十二分にわかっています。けど、検索で見つかるのはあくまで一般的なものでしかなくて、そこにそれぞれの特別は見つけられないんですよね。


特別じゃなくなる訳じゃなかった

ほんとは、わたしにとっての特別が変わるわけじゃなくて、そんな嘆くことでもないって、わかってはいるのです。
ネットの向こうにいる無数の人たちに向けた文章で、写真で、そのお店が紹介されたとしても、わたしにとっての特別性は、なにも変わらないはずなんですよね。当たり前だけど、たとえメディアで紹介されようと、有名になろうと、誰もわたしの特別や思い出に干渉することはできないんだから。

 

ただ、メディアが切りとったイメージのもっと先にこそ、価値があるのだとわたしは思います。イメージのもっと先にある、感情とか、思い出とかそういうの。

実際に行くことでイメージとは違う現実になって、経験になって、誰かとの素敵な思い出になって。そこにわたしにとっての意味があることを忘れないでいたいです。


広くて深くていろんなものが存在する、海みたいなインターネットの世界。そこで偶然にも思い出のおでん屋さんを見つけたという、ただそれっぽっちのことだけど。思いがけず見せられた大衆的イメージに、ダメージをくらったのでした。

そんなイメージとは関係なしに、「この特別は自分だけのだ」って、変わらずぎゅっと守っていきたいです。