つれづれ

かすり傷でもしぬと嘆く人のブログです

「永遠も半ばを過ぎて」を読んで考えた言葉のこと

中島らも「永遠も半ばを過ぎて」

タイトルに惹かれて買った、らもさんの小説。

最初はタイトルの「永遠も」を、「えいえんも」と読んでいたのだけれど、正しくは「とわも」でした。

以後感想について、ネタバレ含みますので、気にしない方のみ読んでください。

 
この本は、中島らもさんのエッセイを読んで、そのあと初めて読んだ、らもさんの小説です。永遠ていうものが、ほんとに永遠じゃなく感じるこのタイトルが、とても好き。このタイトルの由来は、登場人物の波多野が書いた原稿の最初の一節です。ラリったゆえに生まれてきた言霊とはいえ、というより、だからこそなのか、とても美しい。

 

あらすじは、詐欺師の相川と写植屋の波多野、出版社に勤める宇井を中心に、波多野が睡眠薬とビールを飲んで、ハイになった状態で書いた原稿を、幽霊が彼に乗りうつって書いた本だとして売り出す、というもの。コメディ仕立てになっています。


登場人物が睡眠薬をビールで飲んだり、その数錠をボリボリ食べたり、他にも家族に隠れて止められているお酒を飲んだり。そんな場面が出てくるのが、らもさんらしいですよね。わたしは父がアルコール依存症で、薬を酒で飲んだりもするから、リアリティを感じられてなんだか笑えます。

 

らもさんの感性を大好きだって思ったのが、この本に出てくる次の文章。

人は自分の心に名前がないことに耐えられないのだ。そして、孤独や不幸の看板にすがりつく。私はそんなに簡単なのはご免だ。不定形のまま、混沌として、名をつけられずにいたい。・・・(中略)・・・私の心に名前をつけないでほしい。

感情に、嬉しいとか悲しいとか、切ないとかなんとか名前をつけるとき、その瞬間にしかない唯一のものなのに、レッテルにくくられて、感情の機微が失われてしまう気がします。だから、混沌のままでいいのに。恋と友情の話なんかもそう。恋に近い友情もあると思うし、そもそも恋というものだって一つじゃなくて、いろんな恋があるじゃないですか。名前なんてつけなくていいのに、って、そう思うのです。

小説に出てきたこの文章は、そんな思いを掬いあげてくれるものでした。わたしもそう思ってたの、って伝えたくなります。

 

言葉についてもうひとつ。

おれは、岩や水の方がうらやましい。生きているってのは異様ですよ。みんな死んでるのにね。異様だし不安だし、水のなかでもがいているような感じがする。だから人間は言葉を造ったんですよ。卑怯だから、人間は。

作家の平沢にテレビのトーク番組でこの本は偽物だとつめられた際に、波多野が言った台詞です。

それに写植屋の波多野にとっては、

文学も肉の安売りのチラシも同じことで、崇高な言葉もなければ下等な言葉というのもない。

ということらしい。

水のなかでもがくようにして生まれる言葉だからこそ、誰かの心に響くのかもしれない。チラシなんかの文言も含めて、言葉ひとつひとつを愛おしく思えてきます。

 

言葉を使って、名前をつけ難いようなものを紐解きながら伝えるのは骨が折れる作業だし、結局は言葉でぜんぶ表すことなんてできないでしょ、と思うこともあります。
でもどうにかこうにか、もがきながら、言葉で伝えられるように書くことを続けたいと思います。

 

 

永遠も半ばを過ぎて (文春文庫)

永遠も半ばを過ぎて (文春文庫)