いちこのブログ

社会人になりました。日常生活のことを書きつらねています。

インターネットの海で、思い出のおでん屋さんを見つけた話

普段、なかなか会えない‪友人に連れて行ってもらった思い出のおでん屋さんが、キラキラしたメディアにとりあげられているのを見つけました。

 

友人が教えてくれたおでん屋さん

彼が行きつけだというそのおでん屋さんは、繁華街からは少し離れたところにあるこじんまりとしたお店。
おでん屋さんに行くのは人生で2回目だったのですが、おでん屋さんて、なぜだかとても落ち着くんですよね。人はわいわいしてるのだけど、気にさわることもなく。たとえ一人で来ていても長居してしまいそうな、ゆったりとした時間が流れる空間でした。

わたしはそこで美味しいおでんを食べながら、友人の好きな小説家とか、バンドの話を聞いたりして。相手が好きなお店でくつろぎながら好きなものの話ができることに、心地よさを感じていたのを憶えています。


某メディアで、そのお店を見つけた

そんな、自分にとっての思い出でもある(遠いので、それ以来1度も行っていない)おでん屋さんがメディアで紹介されているのを見つけたら、なぜだか残念な、悲しい気持ちになって。そのお店をある種の「イメージ」として見せられたことで、自分の特別を否定されたような気持ちがしたのです。自分にとって特別で大切にしていたものが、ありふれたものだとレッテル貼りされたような。

インターネットでは、誰かにとっての「特別」も情報として切り取られて、誰しも手が届くものになってしまうんだ、と思いました。

わたしも飲食店を探すのにネットを使うし、疑問に思ったらすぐに検索するから、いろんな物事にアクセスできる便利さは十二分にわかっています。けど、検索で見つかるのはあくまで一般的なものでしかなくて、そこにそれぞれの特別は見つけられないんですよね。


特別じゃなくなる訳じゃなかった

ほんとは、わたしにとっての特別が変わるわけじゃなくて、そんな嘆くことでもないって、わかってはいるのです。
ネットの向こうにいる無数の人たちに向けた文章で、写真で、そのお店が紹介されたとしても、わたしにとっての特別性は、なにも変わらないはずなんですよね。当たり前だけど、たとえメディアで紹介されようと、有名になろうと、誰もわたしの特別や思い出に干渉することはできないんだから。

 

ただ、メディアが切りとったイメージのもっと先にこそ、価値があるのだとわたしは思います。イメージのもっと先にある、感情とか、思い出とかそういうの。

実際に行くことでイメージとは違う現実になって、経験になって、誰かとの素敵な思い出になって。そこにわたしにとっての意味があることを忘れないでいたいです。


広くて深くていろんなものが存在する、海みたいなインターネットの世界。そこで偶然にも思い出のおでん屋さんを見つけたという、ただそれっぽっちのことだけど。思いがけず見せられた大衆的イメージに、ダメージをくらったのでした。

そんなイメージとは関係なしに、「この特別は自分だけのだ」って、変わらずぎゅっと守っていきたいです。